「砂の妖精サミアド」では、オリジナルのタイトル「五人の子どもたちとそれ(Five Children and It)」通りに、五人の子どもたちが主人公として出てきます。ところがこの子どもたちの細かな設定が良くわからないのです。
物語はロンドンに2年住んだ一家が、田舎の白い家にやって来るところから始まります。servant(召使、奉公人、お手伝い)が家にいることから、イギリスの中流階級の家族です。ところがお父さんは急な仕事で、お母さんはおばあさんの看病で、子どもたちと奉公人たちを残して出て行ってしまいます。
ところが子どもたちは毎日サミアドに願い事を叶えてもらおうと、サミアドのいる砂利取り場へと向かっては、さまざまな騒ぎをひきおこすのです。学校へも行かずに。
ということは一家は引っ越してきたわけではないのかな? 長期バカンスか何かかな? それは書かれていないのです。そのまま物語は進んでゆきます。
でもきっと子どもにとって、そんなことはどうでも良いことなのです。目の前に広がる不思議に一喜一憂するので精一杯ですから。これは、そんな子ども心を思い出させてくれるお話なのです。
でもきっと子どもにとって、そんなことはどうでも良いことなのです。目の前に広がる不思議に一喜一憂するので精一杯ですから。これは、そんな子ども心を思い出させてくれるお話なのです。
さらにその子どもたちの年齢も書かれていません。赤ん坊が一番下の子だということはわかります。でも上の四人については、シリル、アンシア、ロバート、ジェインという名前から、男二人、女二人だとはわかるのですが、その順番が書かれていないのです。会話の中で「シリルが一番年上だから……」という言葉が出てくるのですが、あとは特に年齢も、生まれた順番も書かれていません。
つまり、ここには実に欧米的、ヨーロッパ的な兄弟姉妹のとらえ方が見て取れるのです。例えば英語では「I have two brothers.」などのように、兄弟や姉妹がいるかいないか、いる場合は何人か、だけを言います。生まれた順番は重要ではないということですね。(もちろん必要ならば「elder」や「younger」を使って兄か弟かを示すこともできますが。)
日本の場合は昔から「家督を継ぐのは長男」という意識が(旧憲法では規定も)あったので、いまだに順番が示されないとなんとなく落ち着きません。そういう文化なのです。でもここに登場する五人には、生まれた順番という意識はないし、物語の書き手もそういう点にはまったくこだわっていないのです。
ではどうやって区別されるかというと、あくまで個性の違いなのです。ですから四人の会話も対等ですし、意見や行動もそれぞれがはっきりしています。上の者が下の者を庇護するとか、下の者が上の者に頼るとかいう関係がないので、言葉遣いにも甘えがありません。
そうすると日本語に訳す場合も、日本的な兄弟姉妹な言葉遣いではなくなるのです。「お兄ちゃん」とか「お姉ちゃん」というような言葉を使うと逆に不自然になります。
この、日本的なベタベタした感じも、年齢による上下関係とかもなく、それぞれが個性豊かに自分を主張するところが、日本人にとって新鮮に映るのだろうと思います。四人はいろいろ失敗を繰り返すのですが、それがカラッとしていて笑えるのも、四人の会話が時に漫才のように楽しいのも、実はそんな文化の違いが影響しているのだろうと思います。
ぜひ、そんな部分も感じていただけたらと思いつつ、現在翻訳作業中です。